一行の詩

直観のままに、わくわくして生きていく

もっと実験的に生きてもいいんじゃないかと思った

京都丸善に久しぶりに足を運びました。昔は四条河原町に行かないと買えないものが多かったのですが、イオンが出来てからは衣食住の買い物は事足りるようになりほぼ行く必要がありませんでした。

 

人が多い場所は苦手なので余計行かなくなっていましたが、職場にお世話になったお礼などを買おう、と思ったときにちょうど百貨店の商品券が眠っていたのでついでに丸善へ寄ることにしたのでした。

 

わたしが本屋さんを好きなのは、周りの人々がディズニーランドを好きなのと似てるのかも、と思います。

わたしにとっての夢の国は、膨大な情報と情熱が詰まった本たちの集まる場所、本屋。

 

ディズニーは行ってみたら楽しかったしわくわくしたけど、周りに楽しんでる人たちがいるから楽しいのであって、一人で楽しめるかと言われるとあまり楽しめないだろうなと思う。ちいかわなら楽しいかも?

 

本屋さんではむしろ、一人でいるほうが身体中を子どものわたしが駆け巡っているようなわくわくとドキドキを感じる。

最近古生物や鉱物に心を奪われていて、この気持ちはなんなんだろう、と思いながらその世界に浸っているところです。

きっかけは、ユングの「心理学と錬金術」を読んで、錬金術の素材について書いてあることに興味を持ったからでした。

 

「メルクリウス(メルクリウス=マーキュリー、水星を象徴する)は金属(水銀)であるが同時に液体でもあり、物質でもあるが同時に霊でもあり、冷たいが同時に火と燃え、毒であるが同時に妙薬でもあり諸対立をひとつに結びつける対立物の合一の象徴なのである」C.C.ユング

 

というように、物質に心的内容を投影した錬金術師たちがいたのですが、物質も心的内容も、黒化、白化、そして赤化(合一して賢者の石となる)という過程をたどるということをユングは論文にしています。

 

物質として水銀から結晶化したものが辰砂(しんしゃ)という赤い鉱石なのですが、鉱物図鑑で見つけて興奮してしまいました。

何千種類という鉱物に人は様々な思いを投影してきたのかなあなんて思いながら鉱物の名前を見ていると、興味は尽きません。

対立物の合一、というのは止揚という概念と近いです。二つのものがぶつかり上位の新しいものが生まれる。

ユングのいう対立物というのは自分の内面にある二つのものだと思います。善悪とか陰陽とか、相対するもの。

 

人と人との関係でいうと、お互いを認め生かそうする結果が対立物の合一ということなのかな。

「対立」というからには、一人ずつが「立」っている必要があります。自分で立つ人同士が対(つい)になる。

対立は争うこととは違うんだなと最近思うようになりました。

実際なかなかに難しいですが自分とも、周りとも、そんな関係の構築に挑戦していきたいです。