ずっと安心について考えている。
それはわたしにとって、動物が危険を回避するために身につけている機能、体を緊張させて備えるっていう無意識に働いている門番と、どうすれば協働していけるかっていう問いなんだ。
人間は現実にはないイマジネーションに対して色んな感情を感じることが出来る。
それは快適な方向にも不快な方向にも使えるけれど
安心を感じていないときほぼ不快な感情が生まれる気がする。
不快という感情が悪いわけじゃなくそれはアラートであって
自分の状態に気づくための大切な機能だ。
ゲームで状態異常を教えてくれるあの感じ、身体中に警告音が巡っている感じ。
それは自分を構成している大事な機能なのだから
適切に使えるととても強い味方になる。
しかし、この使うという言葉がトラップだなと思っていて
心臓を動かすことが自分で出来ないのと同じように
意識して使うことが出来ない機能なんだと思う。
じゃあどうするのかというと
自分に合った環境を整えることは出来るということ。
わたしの場合はふかふかしたクッションやあったかいものをお腹に抱える。
すると体がほっとして今は安全なんだとわかるみたいだ。
人生という道を歩いている中で
サバイバルモードの時のわたしはフル装備で最短距離で、目的地へ行くことに全振りする。
安心モードのわたしは世界と出会い、道のりの景色を味わって寄り道も辞さない。
どちらも必要で、今自分がどのモードなのかを知っていることで迷子にならずにいられる。
何かがあるから安心なのでも
何かが欠けているから不安なのでもない場所が
自分の内側にある。
ひとは他者との関わりの中で生活していて
社会の中で生きるわたしがいる。
その社会の中での役割が全部外れたときわたしは何になるか。
浮かぶイメージは、道端の石ころみたいなもの。
同じようなたくさんある石のひとつひとつに、何がしかの時間が流れてそこに在る。
空間という座標のある一点に物理的に存在できるのはひとつだけ。
何もそのひとつに重なることは出来ない。
どんなに似ていて同じようにみえても。
自分や愛する人達と同じように石ころも、ほんとうはかけがえがない。
そのかけがえのなさを持ったまま、わたしたちは関係性のなかにいる。
わたしが今、危険を知らせてくれる門番を信頼して、安心して屋根の下、生きているから感じられるのは、そういうこと。
