一行の詩

直観のままに、わくわくして生きていく

こわかった!

わたしは内向的な性格だと思うけれど変化することが好きだ。

だけど何年もしていた調理の仕事を諸事情でやめることになったあと、

新しい環境に飛び込んでいくことがなかなか出来なかった。

 

人間の脳みそはそういうふうに出来ているらしいことはわかっていても

そのこわさを飛び越えることがこんなに難しいってことを改めて体験していた。

たぶん小さい頃から何度もそんな場面はあったはず。

その時々でなにか人参をぶらさげるみたいに自分を動かしたりしてたけど

なぜか今度は同じ手は使えなくて

同じところをぐるぐるとめぐっているような日々だった。

 

同じところをぐるぐるしていたようで、やはり生きていると変化するらしく

もう嫌だな、もうここから出ようという気になった。

こわくても新しいことを体験したい、みたいな。

 

ネットでパート求人を検索したら調理の仕事もあったけど

近所の、変わった食材を売る小さなスーパーで

アルバイト募集の貼り紙を見つけた。

なにかそこで働くのが運命のように感じて、すぐ応募して働き始めた。

 

小さいお店なのでそんなに混むことはないけれど

わたしの不器用さとテンポの遅さを何度も注意されてずっと落ち込んでた。

せっかくここで働きたいと思う場所で働けることになったのに

行く前にすごく気が重くなる。

いつも人と同じように出来ない自分に、自分ががっかりしてる。

迷惑かけてるだけなのかな、やめた方がいいのかなって思ったり

自分で自分を否定する場所になってしまってた。

 

大人になったら心も勝手に大人になるわけじゃない。

というか、大人=感情をコントロール出来るようにならないといけないと思っていたから気が重かった。

わたしの中には、人が怒ってたら怖くなったり人が喜んでたら嬉しくなったりする部分がたくさんあって

他者と関わるととても疲れるって感じてた。

それをなんとかしたいってずっと思ってたしある程度は上手くやれてると思ってた。

 

わたしはこわさをなくしたい、克服したいと思っていたけど

わたしの気分を軽くしたのはこわくなくなることじゃなかった。

月曜日に学校に行きたくないと言う子どもに寄り添うみたいに、

嫌だよね、でも新しいこと体験したいんだよねって

自分に寄り添う自分がいてくれることだった。

わたしは誰かに言われて働いてるんじゃなくて

新しい体験をしたくて自分で決めて始めた。

だからお店が許すなら辞めてもいいし頑張ってもいい。

自分の自由なんだ。

 

新しい体験をするならこわいこともあるかもしれない。

こわくなくなるからやるんじゃない。

こわくても体験したいことがあるから歩いていくんだ。

 

これまでと変化しても

これまで歩んできた道が間違いだったわけじゃない。

選んだ方と選ばなかった方は正解と不正解じゃない。

選ぶのは正解じゃなくて自分が求めている方、

自分がそう在りたい自分。

わたしは知らない人とのちょっとしたコミュニケーションが好きだ。

小銭がちょうどあったと嬉しそうにしてるお客さんを見るのが好きだ。

人が笑顔になる瞬間が好きだ。

 

パートの最初の頃

自分を鼓舞してくれたジョルノの名言。

 

  「覚悟」とは…

    犠牲の心ではないッ!

  「覚悟」とは!!

    暗闇の荒野に!!

    進むべき道を切り開く事だッ!

 

 

同じ釜の寿司

最近、腸活をしている。

腸活といっても色々あると思うけど、わたしの腸活は

「まごわやさしい」

まめ類、ごま(種実類)、わかめ(海藻類)、やさい、しいたけ(きのこ類)

これを取り入れることにした。

あとお菓子とか今まで食べ過ぎてたから控えめに。

 

そもそも腸活というか血管年齢が高いですって言われて

血の巡りをよくして体を養おう、体質改善しようと思って

一ヶ月くらい試行錯誤というか実験みたいにやってる。

最初は食後に甘い物がぜったい欲しくなってて

甘い物を禁止してるわけじゃないからさつまいもとか自然の甘みをとるようにしたり

市販のお菓子とかはほんとに食べたいものを少しだけ食べるようにしてる。

 

昔ほど食事の制限がつらくないなと思ったのは

自分の体をちゃんと労ろうって思いが年を経て強くなったからなのかも。

これまでずっと甘みに鈍感になってた。

同じように、美味しいと感じることも麻痺してたかもしれない。

 

わたしは誰かに何かを伝えたくなるとき

事実より自分の感じてるものを共有したいんだなと思う。

腸活のためにネギ入りの納豆にキムチを混ぜて食べた時、あまりに美味しくて誰かに伝えたくなった。

それはネットに納豆キムチが美味しいよと投稿しても

誰かに納豆キムチをおすすめしても

伝えきれないというか、それでは何か足りないという感じのものだ。

そういう伝えきれなさを表現したのが芸術なんだろうなと思う。

わたしは美味しいと感じてるあの瞬間、

口のなかで味わってるあの幸せな感覚を

時間や場所を超えて伝える表現を持たない。

 

絵画や音楽は、作者のこめたものが

時空を超えてその表現に触れた人に届く。

美味しさを味わうってことは何かこめられたものを受け取ってるってことだ。

それはこめようと思わなくてもこもってしまうものなのかも。

 

スシローでお寿司を味わってる時、ふとレーンの向こう側で口をもぐもぐしてる小さな子が目に入った。

その時、わたしは何も表現してないけど自分の感じてる美味しいという感覚を共有してるように感じた。

全くの他人同士が同じ場所で同じようなものを食べてるって意識した時

なんとなく感じた一体感みたいなもの。

あ、これが同じ釜の飯を食うってことに繋がるのか。

 

最近特に思考がお散歩しがちでまとまらないんだけど

これこそAIにはない人間らしさの表現だと思う。

 

 

 

 

ふきのとう

友だちの子どもが哲学を学びたいって言ってるって聞いてすごく嬉しかった。

なんでかなって思ったら、自分と似てる植物の芽が出たのを見たときみたいな感じがしたんだ。

あ、仲間が育ってるって。

 

哲学って、人間は何のために生きてるのかを問うことだ。

最近よく、なんで人間だけ何かのために生きようとするんだろうって思ってた。

植物も動物も生きるために生きているのに

なんで人間は生きてるだけだとダメみたいに感じてしまうんだろうって。

考えてみると、良いとかダメとか生きてて嬉しいとか生きてて悲しいとか思うのは生命を維持してるだけじゃなくて意識が進化しようとしてるからだ。

人間は意識を持っているから自分がどう生きれば意味を感じられるのか考える。

 

人間は生きるために生きている部分と

何かのために生きている部分、両方から出来ている。

何のために生きているのかと問う部分を持ちながら、一生懸命に生きる。

生きるためだけに生きている部分だけでは感じられないことを感じるために

わたしは生きているような気がする。

 

毎日のご飯を

生命を維持するために体に取り入れる部分と

食べることにまつわる営み、例えばどこで誰が作ってくれてどんなふうに運ばれてきた食材なのかを想像する、五感を通して体中で食べものを味わう、誰かと一緒に味わう、そんな心身を養うための部分

その両方があること

それがわたしが生きてる意味のひとつなのかも。

 

 

 

 

変わりたいことの根っこ

最近、何か変えたくなっていませんか?

わたしはなっています、もう変えたので正確には、なっていました。

 

実家にいた頃はよく部屋の家具を大移動させていました。

結婚後は自分の部屋は無いし

家の家具って今の家族の生活に最適化した家具配置なので

気分転換に配置換えするのもなんかなって思ってしてませんでした。

そういう感じかなって思ってたんだけど、どうやら気分転換だけではなかったみたい。

 

髪型をずっと変えたかったけどなかなか変えられなくて

今日やっとカットしてもらって

何を変えたかったか、何を壊したかったかのかがわかりました。

 

子どもが最近、ママの髪の毛、長いほうがいいって言ってたのです。

それは子どもから母としての私への、こんなお母さんでいてほしいっていう期待でした。

髪が長くて、わかりやすくお母さんって感じられる母親像。

それはわたしのなかにもあって

わたし自身、お母さんという存在に大きな理想と期待を抱いていました。

 

普通に好きな髪型にしたらいいのかもしれない。

でもわたしは子どもの期待、こんなお母さんでいて、っていう期待に応えたいって思ってました。

だってわたしも期待してるから、期待に応えてほしいから。

わたしのなかにずっと抱えている理想のお母さん像に期待し続けて、理想のお母さんっていう不自由な場所に居続けることを選んでた。

理想のお母さんがいてくれたら安心だから。

でも、その理想と期待を、もう壊したい、変えたい。

だから、髪の毛を短く切りたかったのです。

 

学校から帰宅した子どもはわたしの髪型を見てすごく混乱したみたいでした。

「こっちこんといて」って。

大好きなお母さんにこっちに来ないでって言わないといけないなんて。

少し前なら、子どもの心にこんな混乱を与えるなんてだめだって思ってた。

 

でも生きていくってことは混乱の中を生きていけるようになる道のりなんだって

やっと思えるようになったから

子どもの反応を見て、あ、わたし期待を裏切りたかったんだなって思いました。

人からの期待に応えないといけないって思い込んでる窮屈な自分を裏切りたかったんだって。

そして髪の毛はまた伸びるし子どもの背も伸びる、嫌でも全部変わっていく。

理想のお母さんじゃなくても、なんか奇妙な髪型に見えるお母さんでも、変わっていっても安心安全に今日が終わる。

 

今日変えられたこと、久しぶりに記事が書けたこと、そして読んでくれたあなたに、感謝を込めて。

 

 

 

 

立派なパリアンになっていた

『パリア』という、オンライン無料ゲームで遊んでいます。

姪っ子が遊んでるというので試しにやってみたら面白くて。

あつ森みたいな感じでクラフトしたり住民と交流したりするんだけど、

他のプレイヤーがいるエリアと自分の区画に分かれていて

採掘したり狩りをしたり魚を釣ったりする。

ストーリーを進めないと手に入らないアイテムがあるので、

攻略サイトを参考にクエストに取り組む。

 

最初は、他のプレイヤーと同じフィールドにいることに緊張していた。

ゲームとはいえ自分が社会に関わるときの在り方がそのままあらわれていて、

自分を客観的にみるのにとてもいい素材だなって思う。

 

ゲーム内のマナーみたいなものがあるからそれが分かるまでは調べたり様子を見たり慎重な自分がいて、ただのゲームなのになんでだろうと考えてた。

わたしにとって現実もゲームも、わたしというフィルターを通して味わってる体験だってことに変わりないみたいだ。

 

現実で誰かと対面したとき、何かまずいことになりそうなときは、表情やニュアンスを伝える事でスムーズにコミュニケーション出来るようにしてるんだと思う。

潤滑油として表情やしぐさを使ってるというか。

しかしゲームではチャットもエモートもとっさに出来ないし円滑にコミュニケーションをとる自信がないからすごく慎重になってるんだなって。

そして相手を不快にさせないことがコミュニケーションの最優先事項になってることに自分でも驚いた。

楽しむためにゲームをしてるのに。。愕然。

それから場数を踏み、アイテムがレベルアップしていくうちに余裕が出てきて楽しめるようになってきた。

今は他の人と一緒でないと伐採できないフローツリーという硬い木を誰かと伐れたときがすごく嬉しい。

それって特定の誰かとフレンドになってるわけではなくて、たまたまその場にオンラインになってる人同士が集まって作業するってことが多くて、わたしはそのスタイルが自分に合ってるんだなあって思った。

あと最近すごく文章を書くことがおっくうで。。

ほんとに脳内通信が実装されてほしい。

 

ペペロンチーノ

前に、子どもがキャンプで食べた焼きそばが美味しかったといって写真を見せてくれた。

塩焼きそばらしいけどどんな味だったのかよくわからないのでペペロンチーノぽいパスタを作ってあげたら、食べたのとちがうけど美味しいという。

それならと、鷹の爪をちゃんと買ってきて作るようになった。

子どもは鷹の爪を見るのは初めてで、一緒に作ってみたときに種が気になった様子。

 

唐辛子ってなんで辛くなったんだろうっていう話になって、

「鳥に食べられないようにじゃない?」とわたしが言うと

「食べてもらって運んでもらうもんじゃないの?」と。

確かにー。

 

どうやって繁殖してるのかなって話しながら種を口に入れてみる子ども。

すごく辛がってる。

わたしは辛いの苦手なので若干引き気味。

そして辛い腹いせに唐辛子のことを罵る子ども。

辛いのを性格に例えてたのが面白かった。

こんな性格やし鳥に食べてもらえへんわ、とかなんとか。

なんか食材のことなんだけど人間社会を思い浮かべてしまう。

辛くてそんなに食べられないけど。。でもその辛さが無かったら物足りない。

 

ひとクセあるものに肩入れしたくなる自分を思いがけず発見しつつ

スマホで検索するとわたし達の予想は外れて鳥は辛くても大丈夫らしい。

じゃあなにに食べて欲しくなくて辛いのかと思ったら、虫やカビ防止のためという説があるとのこと。

思いがけず我が家の米びつとつながってなんか嬉しかった。

 

今日の分かち合いは

夏休み、フレンチトーストをよく作ってる。

子どもが「耳を取って」というのでわたしが耳の部分を食べる。

子どもが食べるかどうかによって自分の食事が決まるってことを当たり前にやってた。

自分の欲求より子どもを育てることを優先する、そういう親の本能として。

子どもも大きくなってきてちょうど思春期の入口が見えてきた。

思春期は、幼体がサナギになり成体へ移行する、変容の時期。

わたしもまた、自分を再構築する時期にきている。

 

フレンチトーストの耳を食べながら自分の声に耳を傾ける。

「わたしはいつも残り物を食べている、いつも後始末をしなければならない」

そんな声が聞こえてくる。

そしてこんな声もある。

「フレンチトーストの耳、美味しい。子どもが食べたがらなかったらわざわざ作らなかった」

 

フレンチトーストは冷蔵庫に入ってたから、美味しいけど少し冷蔵庫の匂いもした。

その体感、「冷蔵庫の匂い」と「卵の香りとパンの食感」を同じ地平で感じたとき、自分でどちらを味わうか選べるんだと思った。

美味しいけど冷蔵庫の匂いがする、ではなくて

美味しい、そして冷蔵庫の匂いがする。

 

全部を感じることができるけど、美味しいと感じるハーモニーだけを選ぶことができるんじゃないか。

 

それは、わたしの中のふたつの声と重なる。

反応的に「人の後始末をさせられる」と感じるわたしと、「フレンチトーストの耳も美味しい」っていう事実を受け取っているわたし。

子どもが残さなければわたしが耳を食べることもなかった。

後始末じゃなくてそれは人と人との間で起こる分かち合いだったかもしれない。

 

目の前の現実を自分の意思で編み直すことができる、選択することができると思った時、わたしはわたしを生きている、わくわくしているって気持ちが胸の奥で光った気がした。

 

ちなみに今日の分かち合いは、フレンチトーストの耳じゃなくてお味噌汁のわかめ。