一行の詩

直観のままに、わくわくして生きていく

千里の道も一歩から

子どもの工作熱に急に火がつくときがあります。

それが今日で、牛乳パック捨てないで!と言ってなにやら夢中で切ったり貼ったりしています。

雑がみとして溜めてある紙袋を見つけて、

「こんなところにいいものが♪」

と、嬉しそうに回収していきます。

「そういうの好きやわ~使えないものを生まれ変わらせて新しい価値が生まれてさ。。」

と、子どもに向かって言いながら、自分で言った言葉に自分で納得していました。

そうだな、最近「循環する」ことが気になっているな、と。

何かが終わって、終わるから新しいものが始まる、生まれるというサイクルに自分がいることを感じている気がします。

 

そう言ったあと子どもがこういいました。

「でも、だいたいうまくいかないんだな~」

なんだかいつも自信がなくて、はじめから予防線はりがちになっているうちの子ども。

わたし自身もそういうとこあるなあ~ありまくるなあ。。と思いながら

それも含めて成長のサイクルだな、と自分に置き換えつつ、子どもにも自分自身にもこう言いました。

 

「どんなものが出来るかも大事だけど、今作っている最中に感じたり楽しんだりしてる経験が、一番大事だとわたしは思うよ」

 

ロボの片足が完成しました。全身を完成させるかさせないかはわからないけど、ロボの片足を一生懸命作っていた経験も、完成した片足も、大事な今日のひとコマです。

 

 

 

もっと実験的に生きてもいいんじゃないかと思った

京都丸善に久しぶりに足を運びました。昔は四条河原町に行かないと買えないものが多かったのですが、イオンが出来てからは衣食住の買い物は事足りるようになりほぼ行く必要がありませんでした。

 

人が多い場所は苦手なので余計行かなくなっていましたが、職場にお世話になったお礼などを買おう、と思ったときにちょうど百貨店の商品券が眠っていたのでついでに丸善へ寄ることにしたのでした。

 

わたしが本屋さんを好きなのは、周りの人々がディズニーランドを好きなのと似てるのかも、と思います。

わたしにとっての夢の国は、膨大な情報と情熱が詰まった本たちの集まる場所、本屋。

 

ディズニーは行ってみたら楽しかったしわくわくしたけど、周りに楽しんでる人たちがいるから楽しいのであって、一人で楽しめるかと言われるとあまり楽しめないだろうなと思う。ちいかわなら楽しいかも?

 

本屋さんではむしろ、一人でいるほうが身体中を子どものわたしが駆け巡っているようなわくわくとドキドキを感じる。

最近古生物や鉱物に心を奪われていて、この気持ちはなんなんだろう、と思いながらその世界に浸っているところです。

きっかけは、ユングの「心理学と錬金術」を読んで、錬金術の素材について書いてあることに興味を持ったからでした。

 

「メルクリウス(メルクリウス=マーキュリー、水星を象徴する)は金属(水銀)であるが同時に液体でもあり、物質でもあるが同時に霊でもあり、冷たいが同時に火と燃え、毒であるが同時に妙薬でもあり諸対立をひとつに結びつける対立物の合一の象徴なのである」C.C.ユング

 

というように、物質に心的内容を投影した錬金術師たちがいたのですが、物質も心的内容も、黒化、白化、そして赤化(合一して賢者の石となる)という過程をたどるということをユングは論文にしています。

 

物質として水銀から結晶化したものが辰砂(しんしゃ)という赤い鉱石なのですが、鉱物図鑑で見つけて興奮してしまいました。

何千種類という鉱物に人は様々な思いを投影してきたのかなあなんて思いながら鉱物の名前を見ていると、興味は尽きません。

対立物の合一、というのは止揚という概念と近いです。二つのものがぶつかり上位の新しいものが生まれる。

ユングのいう対立物というのは自分の内面にある二つのものだと思います。善悪とか陰陽とか、相対するもの。

 

人と人との関係でいうと、お互いを認め生かそうする結果が対立物の合一ということなのかな。

「対立」というからには、一人ずつが「立」っている必要があります。自分で立つ人同士が対(つい)になる。

対立は争うこととは違うんだなと最近思うようになりました。

実際なかなかに難しいですが自分とも、周りとも、そんな関係の構築に挑戦していきたいです。

 

 

「本当の自分」がわかる心理学  シュテファニー・シュタール著

本当の自分とはなんだろう。

周囲の環境に左右されないときの自分、という基準でここ数年間、本当のわたしとは?というテーマに取り組んでいます。

 

タイトルの本は、図書館で予約してから約1年間、ほぼ忘れかけていた頃に借りることができました。

 

本の内容をなんとなくまとめると。

自分のインナーチャイルドを「日向子」と「影子」と呼んで、自分が「影子」と同一化していることを意識することから始め、おとなの自分が「影子」の信念(子どもの頃には必要だった、今は必要なくなった思い込み)を見極め、仲良くなる。「日向子」モードになる時間を増やし今ここを楽しめるようになる。

 

 

人間に生まれて、家族や養育者の求める自分という何者かに向かって成長をつづけ、成人とされる年齢になってからは社会が求める何者かになろうと努力する。

そんな窮屈な生き方を当たり前と思ってきました。

 

無意識の自分について取り組んでいたとき、自分は自分のことを何もわかっていない、そんな実感がわいた瞬間がありました。

 

意識しないから無意識なのであって、というのはユングの本を読むとよく出てくるフレーズですが、自分は無意識を決して意識できないし、それはコントロールも出来ないということです。

 

本当の自分というのは、無意識におしやってしまっている意識したくない自分、意識したら都合が悪い(過去に起きた出来事により、ありのままでは周囲に受け入れてもらえないと思ってしまっている自分にとって!)自分、ということなのかなと思います。

 

本当の自分を知ることは痛みを伴うこともあるけれど、無意識の暗闇から出たがっている気配があるのなら、ちゃんと蓋を開けて思い切り息が出来るようにしてあげたい。

ありのままで世界に受け入れられていることを、毎分毎秒伝えてあげられるのは自分しかいないから。

 

ただこの作業は、一生かけてやる仕事なのかなと思います。人の中で生きていて、自分自身をあるがままに肯定しているという心の場所に、ずっといることは難しいからです。

人の心の中は絶えず揺らぎつづける状態なのだと思います。その揺らぎが人生を面白みのあるもの、味のあるものにしているのかもしれません。

 

 

ハロー・グッバイ

昔から人との別れに弱いのです。遠くに住んでいる従姉妹と楽しく遊んだあとや、卒業式。。

もちろん親しい人との死別。

 

子どもが乳児のときの写真を見ると「あーこのときの○○ちゃんにはもう会えないんだな。。」と思って涙がでたりして。

情緒不安定というか、それが標準装備と思ってました。

 

子どもがお世話になった校長先生が離任されたり叔父さんが亡くなったり、長年のパート先を退職することが急に決まったり、別れと向き合い続けの数週間を過ごしました。

こんなに別れが悲しくて、両親が死んだらどれだけ悲しいだろうか、と想像が暴走したり。

 

ようやく、無くした先ではなくて無くしていない目の前の日々を大事にしようと思えるようになってきました。

 

振り返ると、自分の世界がなくなってしまうような喪失感が大きかったのかな。

誰かがいなくなっても自分の世界はなくならない。

自分が自分の人生にどう存在しているか。

考えることができてよかったと思います。

転んだけど、転んだことで見える景色とか発見があって、何かをつかんで立ち上がれたような気がしています。

 

 

春らんまん気候につられ緩む頬

やっと春休みが終わり、新学期です。

毎年学年が上がるときには、次男は学校に行きたくない、と泣いてしまいます。

新4年生ですが、今年も新しいクラスや色んなことが不安で登校前に泣き出してしまい、始業式はお休みしました。

始業式の次の日、行きたくないと言いながらランドセルを用意する子どもを心の中で精一杯応援しながら見送り、疲れた~と帰ってきた子どもの笑顔にホッとしました。

 

幼稚園のときから毎年のことで、初めはわたしも心配や不安で、なだめたり励ましたり色んな対応をしてみました。

 

そのうち、行き始めると気の合うお友だちが出来たり図工が楽しかったり、子どもの世界が広がっていくごとに不安も少なくなっているようでした。

 

何がよかったのかは、人生が終わるときにしかわからないと思うから、学校に行けたからよかったとか、単純に判断することは出来ないなと思います。

ただ本人が毎日を楽しく、色んなことを吸収しながら成長してくれればいい、いざとなったらむしろ生きてるだけで構わない、そんな思いで見守っています。

 

そんなふうに思うのは自分自身が小さい頃、幼稚園、学校という集団になじむのにとても苦労したから。

甘えとかそういうふうにジャッジする前にその子ががんばれることは何なのか、丁寧に見つけてあげることが出来たらいいな、と思います。

勇者パーティ in me

ちいかわが最近すごく好きです。ちいさくてかわいいやつにキュンとするっていう見た目もあるんだけどやっぱりキャラクターの動きとか存在が、自分の内側にある何かを活性化させてるのかなあと。

 

アニメを見てたら、こんな仲間たちとの時間いいなあ。。癒される。。ほぅ。。て、なっています。

 

わたしはハチワレが好きで、職場の人はうさぎが好きだそう。昔だったらうさぎは自由すぎて苦手だったなあーと思いながら、今はそれぞれの個性が作用しあう面白さみたいなものを楽しんでいます。

 

葬送のフリーレンもなんかそんな面白さを求めて視聴している感じと、人間同士が関わり合いながら作っているこの世界についてフリーレンが気づいていく過程が、なんか自分にもリンクするところがあったりして気になるアニメです。

 

自分の内面を観察しながら現実に起こってくる出来事を捉えなおす、そんな歩き方、楽しみ方が自分にも出来るんだ、と最近おもう。

 

 

主体性をもって

子どもが塾に通うことになりました。わたしは中学生の時に通ったことがあるのですが子どもに通わせるつもりはあまりなくて、子ども自身が行きたいと言い出したので色々検討した結果、通わせることに。

 

自分が周りを気にする子どもだったので、我が子には周りのプレッシャーを感じて子ども時代を過ごしてほしくないな。。と、塾には乗り気ではなかったのですが、とことん話し合い、子どもの意志を汲み入塾が決まったのでした。

 

説明会に行ったときに、塾の先生が大切なこととして挙げてたのが

「主体性」

「積極性」

「協調性」

でした。

うちの子どもは主体性が足りないなぁーと思って子どもに説明しようとして、わたし自身、主体性の意味をしっかり捉えられていないことに気づきました。

 

子どもが自分のことを、協調性はあるけど主体性と積極性はちょっと無理。。と言っていたけど、主体性の意味をよく考えると、塾に行きたいと言って親の説得(?)にも負けず意志を通すというのは、主体性がある証拠では??と思い至り。

 

主体性をもって自分のやりたいことに向かっていっていないのは、余計なものがくっついた大人のわたしのほうかもしれません。

主体性と積極性と協調性、全部をバランスよくは難しいことだけど、それに向かって自分を作っていく道のりが人生なのかもしれない。

そして自分の目標をもってそれに向かってまっすぐ努力できるなら、それ自体が素晴らしいこと。

 

何歳になっても道の途中、また子どもから学びました。