一行の詩

直観のままに、わくわくして生きていく

ハロー・グッバイ

昔から人との別れに弱いのです。遠くに住んでいる従姉妹と楽しく遊んだあとや、卒業式。。

もちろん親しい人との死別。

 

子どもが乳児のときの写真を見ると「あーこのときの○○ちゃんにはもう会えないんだな。。」と思って涙がでたりして。

情緒不安定というか、それが標準装備と思ってました。

 

子どもがお世話になった校長先生が離任されたり叔父さんが亡くなったり、長年のパート先を退職することが急に決まったり、別れと向き合い続けの数週間を過ごしました。

こんなに別れが悲しくて、両親が死んだらどれだけ悲しいだろうか、と想像が暴走したり。

 

ようやく、無くした先ではなくて無くしていない目の前の日々を大事にしようと思えるようになってきました。

 

振り返ると、自分の世界がなくなってしまうような喪失感が大きかったのかな。

誰かがいなくなっても自分の世界はなくならない。

自分が自分の人生にどう存在しているか。

考えることができてよかったと思います。

転んだけど、転んだことで見える景色とか発見があって、何かをつかんで立ち上がれたような気がしています。

 

 

春らんまん気候につられ緩む頬

やっと春休みが終わり、新学期です。

毎年学年が上がるときには、次男は学校に行きたくない、と泣いてしまいます。

新4年生ですが、今年も新しいクラスや色んなことが不安で登校前に泣き出してしまい、始業式はお休みしました。

始業式の次の日、行きたくないと言いながらランドセルを用意する子どもを心の中で精一杯応援しながら見送り、疲れた~と帰ってきた子どもの笑顔にホッとしました。

 

幼稚園のときから毎年のことで、初めはわたしも心配や不安で、なだめたり励ましたり色んな対応をしてみました。

 

そのうち、行き始めると気の合うお友だちが出来たり図工が楽しかったり、子どもの世界が広がっていくごとに不安も少なくなっているようでした。

 

何がよかったのかは、人生が終わるときにしかわからないと思うから、学校に行けたからよかったとか、単純に判断することは出来ないなと思います。

ただ本人が毎日を楽しく、色んなことを吸収しながら成長してくれればいい、いざとなったらむしろ生きてるだけで構わない、そんな思いで見守っています。

 

そんなふうに思うのは自分自身が小さい頃、幼稚園、学校という集団になじむのにとても苦労したから。

甘えとかそういうふうにジャッジする前にその子ががんばれることは何なのか、丁寧に見つけてあげることが出来たらいいな、と思います。

勇者パーティ in me

ちいかわが最近すごく好きです。ちいさくてかわいいやつにキュンとするっていう見た目もあるんだけどやっぱりキャラクターの動きとか存在が、自分の内側にある何かを活性化させてるのかなあと。

 

アニメを見てたら、こんな仲間たちとの時間いいなあ。。癒される。。ほぅ。。て、なっています。

 

わたしはハチワレが好きで、職場の人はうさぎが好きだそう。昔だったらうさぎは自由すぎて苦手だったなあーと思いながら、今はそれぞれの個性が作用しあう面白さみたいなものを楽しんでいます。

 

葬送のフリーレンもなんかそんな面白さを求めて視聴している感じと、人間同士が関わり合いながら作っているこの世界についてフリーレンが気づいていく過程が、なんか自分にもリンクするところがあったりして気になるアニメです。

 

自分の内面を観察しながら現実に起こってくる出来事を捉えなおす、そんな歩き方、楽しみ方が自分にも出来るんだ、と最近おもう。

 

 

主体性をもって

子どもが塾に通うことになりました。わたしは中学生の時に通ったことがあるのですが子どもに通わせるつもりはあまりなくて、子ども自身が行きたいと言い出したので色々検討した結果、通わせることに。

 

自分が周りを気にする子どもだったので、我が子には周りのプレッシャーを感じて子ども時代を過ごしてほしくないな。。と、塾には乗り気ではなかったのですが、とことん話し合い、子どもの意志を汲み入塾が決まったのでした。

 

説明会に行ったときに、塾の先生が大切なこととして挙げてたのが

「主体性」

「積極性」

「協調性」

でした。

うちの子どもは主体性が足りないなぁーと思って子どもに説明しようとして、わたし自身、主体性の意味をしっかり捉えられていないことに気づきました。

 

子どもが自分のことを、協調性はあるけど主体性と積極性はちょっと無理。。と言っていたけど、主体性の意味をよく考えると、塾に行きたいと言って親の説得(?)にも負けず意志を通すというのは、主体性がある証拠では??と思い至り。

 

主体性をもって自分のやりたいことに向かっていっていないのは、余計なものがくっついた大人のわたしのほうかもしれません。

主体性と積極性と協調性、全部をバランスよくは難しいことだけど、それに向かって自分を作っていく道のりが人生なのかもしれない。

そして自分の目標をもってそれに向かってまっすぐ努力できるなら、それ自体が素晴らしいこと。

 

何歳になっても道の途中、また子どもから学びました。

 

 

 

未来に連れていってあげるからね

『葬送のフリーレン』を子どもが見ていて、途中から追いかけて見ています。なかなか追いつけない。。

題名は、フリーレンがフォル爺に言ったセリフの一部。

「フォル爺の記憶も私が未来に連れていってあげるからね」

そんな詳しく見ていないけどズドーンと入ってきました。フリーレンは長生きの種族なのでそう言うのが構図としてとてもわかりやすいのですが、自分の子どもや、今生まれてきている子どもたちがわたしにとってフリーレンのように感じました。

 

自分の生きた証ともいえる記憶が、途切れず未来へつながっていくということに自分も大きな自然の一部なんだという情動を感じて。

 

情動を感じる、情緒を感じる、どういえば一番言い表せているかなと考えていて、情動を感じる、というと人によって印象が限定されるのかもしれないと思ったとき、エモいってとてもエモい気持ちを表すのにドンピシャな言葉だなーと思いました。

わたしにとってのエモいは全わたしが揺さぶられる感覚というのが近い、かな?

 

ドンピシャっていうのも、「的確だ。」と言うよりドンピシャのほうがやっぱりドンピシャだし。ぴったりくるでもいいかもしれない。

 

未来では色んな謎が解明されているのかな、車も空を飛んでいるかな、そんな話を子どもとしていて、わたしも未来へ連れていってねとお願いしました。

未来を生きていく子どもの記憶に私がいるということは、子どもがわたしを未来へ連れて行くとも言えるわけで。

わくわくすることは尽きません。

 

 

 

メイドインジャパン~僕の赤白帽~

あまり生活する上で重視しないようなことをつらつら考えてしまうのですが、今日は子どもの赤白帽のことを書きたいと思います。

 

子どもたちが幼稚園の年長さんのときから赤白帽を使っていて、小学生でもそのまま使っていたのですが、あごひも?が取れてしまったのでお直ししようと思ったときのことです。

赤白帽をそんなまじまじと見たことがなかったので知らなかったのですが、赤帽のほうは赤い糸で、白帽のほうは白い糸で縫製してあるのです。

びっくりして、しばらく放心してから誰かと分かち合いたい気持ちになりました。

こんな細かい心遣いで赤白帽が出来上がっていたことに感動して。

 

ついでにいうと、手縫いでお直しするとき赤糸か白糸、どちらでなおすべきか、という、一般的には「好きなほうで」と言われそうな問題について誰かと純粋に意見交換をしたくなりました。

真剣に向き合うことで、帽子を作ってくれた人と心を重ねられる気がしたというか。。

 

なんとなく小さな町工場(令和ロマン?)をイメージしたけど今はきっと機械で大量生産ですね。

調べたらこうでした↓

紅白帽は、昭和の中期・後期に活躍した喜劇俳優にして落語家で発明家でもあった柳家金語楼が発案し、実用新案として登録したのが始まりで、当初から全国に広く普及し、今日の日本においてもほとんどすべての小学校で採用されている。』

最初に作った人は色々試作したんだろうな。

ミシンを使ったことがある人はわかると思うのですが、ミシンは上糸と下糸に分かれているので表と裏で色を変えることが可能です。

ミシンで作るようになってから赤と白の糸で縫うようになったんでしょうね。

考え始めると止まりません。。

 

当時のママ友に、

「赤白帽のひもをつけ直そうと思ったら、赤と白に縫い糸が分かれていた!どっちの色で縫えばいいと思う?」

っていうふうに話をしたら、

「細かいこと考えすぎ~!そんなに考えなくても大丈夫!」

と、何故か励まされるという不本意な結果になりました。

 

こんな風に自分の思ってることが相手に伝わらないという経験を嫌というほどしてきたので、当たり障りのない会話をするように気をつけたり、そんなに細かく考えないほうがいいんだな、と今までは自分を納得させようとしていました。

 

ただこのときのことを振り返ると、自分でもどんな思いを人と共有したいのかがわかってなかった気がします。

「何故か」励まされたわけではなくて、わたしが励ましてほしそうに赤白帽の話をしたから励ましてくれたのかな、と今は思います。

 

話の重心が自分に全然かかっていなくて、相手に寄りすぎていたのです。自分はこんなふうに思う、あなたはどう思う?という、フラットな対話をするのがとても難しかった。

 

今は自分自身との対話のコツがつかめてきたので、不必要に自分を抑えないで、ちゃんと自分の思いを自分自身はわかっていることが増えました。

あるがままの自分で人とコミュニケーションすることを学び中です。

誰といてもわくわくしてる自分でいたいな。

 

 

 

 

 

僕が僕であるために

年明けからたくさんの悲しいことが起こり、我が家は一家で下痢嘔吐して苦しいお正月でした。

色んな思いがわき上がるのを日々の生活の中でやりすごしています。

ほんとに思いを言葉にするのがむずかしいと、年を経るほどにしみじみと感じる。

 

ただただ今は祈りを向けるのみで。

日常を送れている今わたしにできることを心をこめて行うことで、何かのこたえにたどりつけるのかなと思う。

いつもと変わらない場所にいつもと変わらないわたしがいること、それが周りへの安心につながるのかな、と思ったり。

わたしは今日、色んな人、物、自然、周りのすべてのおかげで生きることができました、ありがとう。