一行の詩

直観のままに、わくわくして生きていく

しょうゆは冷蔵庫

よく眠り、よく食べ、よく遊ぶことが、人に優しく出来る大前提だと学んだわたしです。

夫はよくわたしに自分の価値観を押し付けてくるのですが、結婚当初は押し付けられているとも感じていませんでした。

なんというか、お嫁に来たら旦那さんが機嫌よくいられるように内助の功を尽くすもの、という価値観で育ったので最初は一所懸命に努力したわけです。

スーパーの特売をはしごして倹約したり、仕事から帰ってきたら玄関まで出迎えてお帰りなさいと声をかけたり。初めは自分も喜んでやっていたはずですが、子どもが生まれてワンオペ男児二人育児の嵐の中でどんどん自分の首を絞めることになってしまいました。

 

夫が、仕事から帰るなり子どもがちらかしたおもちゃを見てイライラするので、こちらもイライラとおもちゃを片付けていました。今思えば、わたしがおもちゃを片付ける必要はなかったと思います。

 

おもちゃがちらかっているのが嫌で、自分が帰宅したら片付ける子どもにしつけたいなら(わたしは嫌ですが)夫自身がそのように行動すればいいだけのところへ、わたしが自分から踏み込んでいっていたのです。

その頃、課題の分離とかよく聞くようになっていたので、そういう考え方がわたしの中に入ってきていたのだと思います。

 

子どもが大きくなってきてこんなエピソードがありました。

食事中に夫がわたしに「しょうゆは?」と言ったとき、とっさにわたしの思考はこう考えました。

 

夫はしょうゆを必要としている

自分がしょうゆを取らなければならない

自分はさっき料理し終わって、今ようやく椅子に座って食べようとしているところである

お腹すいてるのにしょうゆのためにお預けさせられる

むかつく

 

そしてむかつきながらしょうゆを取ろうとしました。そこへ長男が「しょうゆは冷蔵庫にあるよ」と言ったのです。

夫は「しょうゆは?」としか言っていません。言外にしょうゆをとってくれと言っているのは明らかですが、この一言でしょうゆをとってあげるという高度な気遣いは、よく眠りよく食べよく遊んでいて初めてご機嫌で発動するものです(あくまでわたしのキャパでは)。

 

夫にしてあげたい妻でないことを申し訳なく思っていたときもありましたが、友人が「自分で自分のことを出来るようにしておかないと、一人になったとき困るのは本人だしね!」という言葉に、そのとおりだな、相手にとって本当に必要なことは、わたしの勝手な思考とは関係ないところにあるものかもしれないな、と思うようになりました。

 

それ以来、「好きでやってるんでしょ?」と言われて「もちろん!」と言えない気持ちのときは、出来るだけやらない選択をするようにしています。