一行の詩

直観のままに、わくわくして生きていく

一点に向かって収束していくような

電車の向かいに座っている人のロングスカートの裾に、蝉が止まっていました。

あんまりびっくりするようなことに出会わないというか、珍事とは縁遠い毎日なので目を疑いました。

乗客も少なくほぼ私とその人くらいで、なんだか異世界に迷いこんだような不思議な気分。

 

帽子を目深にかぶっていたのでわたしの視線はたぶん気付かれていないはず。じっと蝉を観察します。スカートの裾につけるアクセサリーなどでは無さそう。。蝉氏のリアルな足がしっかり布にひっかかっておる。蝉をつけたその人の足が動く度に、飛んでいかないか気が気ではありません。

子どもとの蝉取り歴5年のわたしには、そんな状態の蝉はありえないのでますます目を疑います。

 

どこを歩いてきたら蝉が裾にとまるのか。。そしていつこの蝉はスカートから飛び立つのか。。わたしの好奇心はMAXをこえ、声をかけたい欲求が沸き上がります。

しかし、わたしにはこんな記憶があります。自分の服の背中にカメムシが乱入してきたことがあって、そのとき一緒にいた友人は、「(明らかに虫が入ったのを目撃したけど)虫が入ったかもしれないけど違うかも?たぶん入ってないけど一応服をぬいで確認してみたら?」と冷静に導いてくれたのです。

そのとき「カメムシが背中に入った!」なんて言われたら恐怖でパニックになっていたと思います。

 

そのときのことを思い出すと、蝉をつけた人がそれと気付かないうちに、蝉が飛んでいくのがわたしの考えうる最善でした(森へお帰り。。)

虫好きという可能性もありますが最悪の事態を避けるためにも楽観的な予想はあえて捨てます。

 

せめて自分の許容範囲内で成り行きを見守りたく、わたしの降りる駅より前に蝉をつけた人が降りますようにと祈りながら蝉を監視し続けました。

 

かくして、蝉をつけた人はわたしより前に降車したのですが全く何も起こらない。蝉は角度的に見えないけれど、「ジ」とも言わない。

見事に何事も起きず電車は閉まってしまいました。平然とホームを歩いていく蝉をつけた人。

こんなに赤の他人を見つめ続けたのは初めてです。予定がなかったら追いかけていたかもしれません。

 

わたしが見ていないところで色んな出来事が起こっていることの不思議を改めて感じる蝉事件でした。

自分と地続きの出来事が、自分がいない間に展開していくことが「量子の二重スリット実験」を思い起こさせ、わたしが見ている間だけ蝉が存在していたのでは。。なんて空想をさせてくれます。

 

図書館で借りた『世界は「関係」で出来ている 美しくも過激な量子論』を読むとまた違った世界が広がるのでしょうか?

とっておきのお菓子を食べるように、読み進めるのを楽しみたいと思います。