一行の詩

直観のままに、わくわくして生きていく

導き出す

栄養専門学校に通っていたころの友達と昨日、5年ぶりに会いました。コロナはまだ無くなってないけど、わたしの動きとしては活動的な局面を迎えています。

 

会社員を7年していたのですが、心身共に不調をきたして退職。それから体のことや栄養の勉強をしたくて専門学校へ通いました。28歳のときに入って、色んな年齢の人が同級生に。そのときからの友達2人(もう一人いるのですが今日は子どもちゃんの発熱で断念)との再会でした。

いろんな話をしてほんとに楽しかったです。自然体でいられる友達。昔よりさらに気負わずにいられた気がする。

 

思い出してみると、専門学校へ通っていた頃はわりと、いきいき生活していたような気がします。

自分で貯めたお金で自分で学校を決めて、好きな勉強が出来たからなのかなとも思うし、色んな年齢の人達が同じ分野を学ぶ環境の中で、自分を何かにカテゴライズせず過ごせた時間でした。

 

ふと書き始めた記事で、自分の気持ちを発見することがあります。どうしていきいきと生活していられたのか、自然体でいられたのか、書き始めたときはわからなかったのに、書いているうちにこれだ、というものがぼんやり見えてくる。

 

社会や親から期待されるような自分を生きるのではなく、自分の「自分は、こうしたい」という思いを素直に顕して生きているとき、自分がいちばん自然体でいられる。なんか当たり前のことなんだけど周りの意見を取り込みすぎて自分がわからなくなっていた自分には、大きな気付きでした。

 

専門学校へ通っている間ずっと実家で生活していたわけで、アルバイトをして食費などは入れていたけど光熱費もご飯の用意も洗濯も、全部やってもらっていたことがほんとに有り難かった。その間なにも言わずに支えてくれていた両親はすごいなと思うし、大きな愛で包み込んでくれていたんだなと感じます。

 

そこの感謝を、うまく昇華できなくて親離れできていないというか、距離をとれずに一人でがんじがらめになっていたのかもしれない。

感謝するその相手(わたしの場合は親)に何かお返ししたいという気持ちを、相手の期待する振る舞いを提供するという形で表現してしまっていたというか。

 

やっと親子の分離みたいなのは出来つつあるものの、対等な、人間同士のやりとりは難しい。

色んな事を受け取りすぎるのは自分の性分なので、出来れば相手の意見はふんわり受け止めて、自分にとって必要ないものは受け入れない選択が出来るといい。

望まないアドバイスをスルーする柔軟さを身につけられると、素直な自分で生きられるかもしれない。そんな出来るかどうかわからない答えではあるものの、一応の着地点は導き出せた。

 

自分の素直な気持ちにふたをして、もう大人だから、両親もいつまでもいてくれるわけじゃないから、と物分かりのよいふりをして拗らせて来た思いをやっと手放し始めています。